私は主に2種類の人間を信用していない。将来こうなると断言する人と道徳を最優先する人である。
昨日こんな↓記事を読んだ。そこで今日は、後者について書いてみようと思う。
この記事は、国家・企業・個人に関するいくつかの不正や不祥事について、道徳という軸で語られている。ちなみに、筆者は朝日新聞社に長くおられた方のようだ。
ちなみにのついでに。
朝日新聞社は、慰安婦報道や吉田調書の件が記憶に新しい。しかし、歴史をさかのぼると珊瑚記事捏造事件などあらゆる不祥事が見られる。約40年も在籍していたそんな企業に対して、筆者は道徳的にどのように感じられているのか。聞いてみたい気もするが、本題から離れるので置いておく。
この記事に限らず、「モラルガー」という人は実に多い。しかし、そもそもモラル(道徳)とは何なのだろうか?
道徳って何?
人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
辞書ではこうなっている。おおむね、ふだん我々が思っている意味とはズレていないはずだ。しかし、よく考えると分かりづらい。善悪ってそう簡単に決められるのだろうか。たった1つのことでも、善悪がぷっつり分かれたりするから揉めるんじゃなかったっけ。そもそも、国や文化圏で、善悪ってだいぶ違うし。正しい行為って何?誰が正しいか正しくないか決めるのだろうか。
例えば、ヒンドゥー教徒の友人がいるとする。「神聖な牛を食べるなんて道徳的にあり得ない。お前の頭は腐っている。今後一切牛を食べるな」と彼があなたに言ったとする。牛を食べないのは、彼にとって間違いなく正しい行為なのだ。あなたはどう思うだろう。いや、彼の中で牛を食べないのが正しい行為というのは尊重する。しかし、それは私にとっては関係のないことだ、などとならないだろうか。
辞書には、「自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く」とも書いてある。道徳というのは自分の中で持つものであり、外に向かって押しつけすぎるのは不健全なのではないだろうか。
「法律は完璧ではない。だから、道徳が必要なのだ」という反論がある。
確かに、法律なんてものは完全でもなんでもない。ただ、道徳は法律以上にまとまるはずのないものだろう。第一、最低限の道徳はすでに法律でカバーされている。人を殺すなとか。物を壊すなとか。つまり、一部が思い描く勝手な道徳を持ち出されるよりは、法律の方がよほどマシなのではないか。と、私は思っている。
自らの道徳感情を振りかざす人間は、ジャンボモナカだ
「それでも、自らの道徳を他に押し付けたい。」
それは、もはや法治主義ではなく徳治主義的な考え方でだろう。
こういった傾向は、左と言われる方々に顕著に見られる。自分の道徳感情が、あたかも常識であるかのように振る舞う。ように、私には見える。しかし、朝日新聞社の販売部数。リベラル政党の選挙結果。こういった状態を見ると、彼らの道徳感情の影響範囲は徳治主義と呼ぶには程遠いものを感じる。
ここまで書いて、あるブログを思い出した。
この方の文章をお借りする。つまり、「自らの道徳感情を振りかざす人間は、ジャンボモナカだ」ということを私は言いたいのだ。そして、さらに先鋭化しモハヤ手のつけられなくなった存在、それがモナ王であると。
なお、上の記事にもあるようにジャンボモナカもモナ王も普通にうまい。例えとして使っただけなので、誤解なきようお願い申し上げます。
最後に
最後に。道徳感情の弊害について、実によく書かれている本がある。
- 作者: 管賀江留郎
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2016/05/11
- メディア: 単行本
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宮崎哲弥氏も絶賛されているとおり、非常によく事実を調べられている本である。ご興味のある方は、是非一度読まれることおススメする。