先日、こんな記事を読んだ。
人間が心を開く対象として、ロボットやアンドロイドの外見が人間に酷似している必要は全くない。声と触感さえあれば、一般の人間は「ソレを人間」だと感じる。我々がロボットやアンドロイドなどに、心を開くためには、その外見は人間の形をしていなくても良いのだ。
これはとても面白い発見だ。と、私は思っている。
先日、「人は視覚を使いすぎている」という記事を書いた。
「ソレを人間」だと感じることが、人間の根源的なものであるのは言うまでもない。なのに、普段ほとんどの場において主役であるはずの視覚が、この根源的なものにおいては舞台のセンターにいないのだ。実に面白い。
だから人は踊る
私はダンサーである。以前、触覚の重要性についてダンスを材料に記事を書いた。
当たり前のことだが、ダンスにおける主役は「聴覚」と「触覚」である。そして、声と触感さえあれば、一般の人間はロボットでも人間だと感じる。たとえソレの見た目が人間とは程遠くても。
「そうか、だから人は踊るのかもしれない」
恐らくだが、人は喋るずっと前から踊っていた。そして、人種や文化の関係なく世界中に踊りがある。人にとって踊りとはそれほどに根源的なものなのだ。
しかし一方で、現在の日本において踊りの価値は低いように感じる。昔と比べて、人々が踊る機会はかなり減ったのではないだろうか。
視覚の記事で、視覚の使いすぎと精神病の関係性について少しふれた。踊りに関しても同様のことが言えるのかもしれない。
ロボット化で人はより根源的なものに回帰するのかも
ロボットと人間が共存する社会については、マイナス面のことが語られる機会も多い。しかし、ロボットを人に近づけようとする試みは、人間を解き明かす作業とイコールなのだろう。
今回書いたダンスはあくまで1つの例にすぎない。ロボット化が進めば進むほど、人間はより根源的なものに回帰していくのかもしれない。