イライラを解消したい人にオススメ マインドフルネス(瞑想)がイマイチな人にオススメ

慈悲の瞑想よりも「気づきの手」の方が効果があるという体験

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瞑想の効果としてよく知られているのは、物事をただありのままに見ることができるようになることです。そして私の経験と照らし合わせても、そのとおりだなと感じます。

先日拝読した『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』にもこのように書かれていました。

 

「怒り」や「痛み」という「対象」を「私」が観察するのではなくて、「怒り」や「痛み」のみならず、「私」までも含まれた、現象の流れが生成消滅しているプロセスの全体を、平等に観察する気づき(sati)の目から見るというのが、本来のウィパッサナーのヴィジョンであるということです。

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

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つまりいつも見ている自分の目からではなく、気づきの目から見ることによって智慧に関する理解が深まるということです。

しかし一方で、慈悲について深く語られている本や人に私はあまり触れたことがありません。

 

 

慈悲の瞑想への違和感

 

慈悲で有名なのといえば、慈悲の瞑想でしょうか。そう言えば、先ほどの『悟らなくたって、いいじゃないか』の中でも、魚川祐司氏がこのように話しておられました。

 

いわゆる「慈悲の瞑想」についても話をしておきましょうか。実は私、これが苦手なんですよね。

 

そうなんですよね。実は私も苦手でした。ヴィパッサナー瞑想によって、私たちは言葉の世界(思考の世界)から離れるよう試みます。しかし言葉の世界を離れることができた後、慈悲の瞑想によってナゼまた言葉の世界に戻るのか。すました感じで言うのであれば、慈悲の瞑想に対する違和感を私はこう説明するでしょう。

まぁでも、そんな堅苦しい言い方だと伝わりませんかね。ぶっちゃけて言うと、慈悲の瞑想には洗脳と似たワザとらしさを感じるんですよね。

そう、私は瞑想状態に入ったあと慈悲の瞑想を唱えることは、洗脳やマインドコントロールの手法と似ていると思っているのですよ。もちろん教祖さまなどはいませんよ。自分で自分を洗脳しようとする自己啓発みたいなものというか、自己洗脳ですね。慈悲の瞑想に対してそのように感じていました。

なぜ自己洗脳なのか。洗脳をテーマに卒論を書いた身なのでちょっとはそれっぽい根拠を書けそうな気がしますが、長くなりそうだし今回の主旨からもズレるためマタ別の機会にしたいと思います。

 

慈悲には"気づきの手"が必要

 

慈悲の瞑想には違和感が残る。ではどうすれば慈悲に対してのアプローチができるのだろうか。そう考えた結果、出てきたのは「気づきの手」でした。「慈悲には気づきの手が必要なのではないか」私はそう思っているのです。

このように感じた理由は、他でもない私自身の経験によります。

瞑想にはコツがあると私は思っているのですが、実際コツが分かってからは瞑想によって気づきの目から見れる機会が増えたんですね。そうすると今まで苦痛でしょうがなかったことが、「なぜこんなことに執着していたのか」と不思議なくらいアッサリと手放せるんですよ。とても不思議な感じでした。

ちなみに以前、瞑想のコツと多少関連する記事を書かせていただいたので、良かったらチェックしてみてください。

 

「悟りを開く」の意味が分かったかもしれないので書いておく

 

「気づきの目で見る」は、当然ながら私にとって貴重な体験となりました。ただ残念なことに、それだけでは慈悲という感覚は生まれてきませんでした。少なくとも私の場合は、慈悲が生まれる気配すらありませんでした。

瞑想によって得られたのは、世界がタダありのままに見えている感じです。「見える」というのはイマイチ正確ではありません。「ただソコにある感じ」という方が正確かな。それ以上でもそれ以下でもないんですよね。

しかし、あるときふと「見るだけじゃなくて、触ってみればいいんじゃね」と思ったのです。気づきの目で見るように、気づきの手で触るということです。気づきの目で中立に見ることに加えて、気づきの手で中立に触るのです。もちろん、本当に手で触るわけではありませんよ。

この練習を重ねた結果、感覚にまた変化があらわれました。それまで違和感のあった、慈悲の瞑想の言葉をスッと受けいられるようになったんですね。受け入れるというか、触ること自体が慈悲の瞑想の言葉そのものだと感じるようになりました。

 

気づきの手と千手観音

 

ちなみに「気づきの手で触る」をイメージで言うのなら、千手観音がピッタリです。つまり元々の2本の手ではなく、身体全体から無数に出ている手で世界を触る感覚です。実は目に関しても同じです。元々ある2つの目というよりも、身体全体から見ている感覚のときうまくいっているように思います。

ある日、なにげなく千手観音像の写真を見ていたんですね。そしたらビックリしました。私はこのとき初めて、千手観音像の千本の手の中に眼があるということを知ったのです。そうなんです、千本の手の中に眼があるというのは私の瞑想状態のイメージにピッタリなんですね。しかも、Wikipedia には「眼は智慧で手は慈悲をあらわす」としっかり書かれておりました。

 

 

さらにこの像が素晴らしいのは、自分の2つの目と2本の手は内に閉じられているのに、千個の眼と千本の手は外に開かれているんですね。これは、まさしく気づきの目で見て、気付きの手で触ることなのではないだろうかと私は勝手に確信してしまったワケですよ。まぁ実際のところは分かりませんが。

 

気づきの手は自分にも効く

 

気づきの目で見ると、怒りの感情なんかもどうせ流れる雲のようにそのうち流れていってしまうと思えると言われています。そして私の経験と照らし合わせても、そのとおりだなと感じます。

一方気づきの手でさわれば、慈悲が湧くと書きました。コレ、自分の感情にも効くように思っています。雲の流れる様子を眺めているだけでも特に問題はないのですが、プラスアルファで触ってあげるのです。そうすると不思議と感情が柔らかくなります。

気づきの目もそうですが、気づきの手についてもまだまだ良い感じにできそうな気がしているので、取り敢えずはこの方向で練習を進めてみようと思っています。

 

 

  • この記事を書いた人

ヨコアミジロー

東京大学卒。 貧乏ゆすりの研究者。

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