契約や権利に対する日本人特有の感覚
日本のサラリーマンが社畜と言われるようになったのは、いつからでしょうか。社畜=会社の家畜という意味ですよね?つまり日本のサラリーマンは、奴隷や家畜みたいなものだという皮肉だと思います。
そもそも奴隷って何なのでしょうか。これは一言で言い表わせそうです。
奴隷=契約の権利がない人間
のことです。
でもそうすると、こんな反論が成り立ちます。
「そしたら社畜は奴隷じゃなくない?だって入社のときに雇用契約を結ぶわけだし。」
しかし。。日本の場合、ここでアレっ?!という現象が起きます。
はい、日本のサラリーマンで雇用契約書の中身をじっくり確認してサインした人ってどれくらいいますかという話なんです。新卒入社時なんて特にそうでしょうが、契約書なんてじっくり見なくないですか?
普通に考えるとおかしな話です。すぐに転職しようと考えて入社する新卒なんてあまりいないですよね。長くいようと思えば思うほど、契約内容は重要なものとなるはずです。なのにそんな重要な契約書を細かにチェックすることなくサインしてしまう。
なぜでしょうか。勿体ぶって書いてしまいましたが、答えは簡単ですよね。いちいちチェックしてもあまり意味がないからです。いや意味がないどころか、先輩社員の目の前でいちいちチェックでもしようものなら、早速のマイナス印象となってしまうかもしれません。
いざ働きだして、あるとき契約内容にないことを命じられたとしても、「契約内容にないことだから、私はしません」などと口が裂けても言えないわけです。これは年齢が若ければ若いほどそうですよね。
だから下のような老人のセリフが、こと日本では当たり前のように通ってしまうわけです。
老人が若い者を非難してね、「この頃の若い者は権利ばっかり主張して義務をぜんぜん行わない」と。これこそ奇妙なことで正しい意味では権利というのは主張できるから権利なんですね。主張できない権利なんて、そもそも論理矛盾。
契約と同じで、契約というのは必ず主張できるんですね。
つまり形上の契約はあるものの、実質的には権利がない。「ない」というのは言い過ぎですね。権利が薄いとでも言いましょうか、何にせよそれこそが社畜が社畜たる所以なのではないでしょうか。
よく言われる「搾取」という言葉があります。長時間働かされるのに、残業代がつかない、安月給でこき使われるみたいな話です。でもそれはあくまで枝葉であって、根本はこの契約や権利に対する日本人特有の感覚ではないでしょうか。
なので長時間労働の是正などに対して政府が動くことも大事だとは思いますが、それよりも雇用契約の遵守を徹底させる方が先決ではないかと私は思います。
欧米と日本とでは「搾取」の意味が異なる
ちなみに資本主義における搾取については、日本教の社会学では以下のように書かれていて、なるほどなと勉強になりました。
資本主義は「搾取」によって成立するといわれるでしょう。ところが同じく「搾取」といっても、欧米諸国と日本とでは意味を著しく異にします。西欧資本主義国においては労働者は物になってしまうんです。
うん、なりますね。ところが日本は搾取の極限状態においては、労働者は資本家の家来になってしまう。
そもそも労働市場において、資本家と労働者が労働力を売り買いするのが資本主義です。しかし日本では、ここに労働力だけではなく人格が入り込んでしまうわけです。
ではなぜ日本はこのような特殊な状態になったのか。
もともと資本主義は、共同体の崩壊によって出てきた思想です。でも日本では、共同体が崩壊することはなく、会社組織という形で資本主義にスッポリ入ってしまったというのが理由です。
そうなんです、共同体だから契約内容以外のこともやらなければいけなくなるわけです。
ただ昨今よく言われているように、会社=共同体という図式は以前と比べて大分と弱まっているように見えます。
ブラック企業問題や過労死問題が依然として大きく取り上げられているものの、やはり以前と比べると減少傾向にあるのではないでしょうか。
まあもっとも↓のように、有識者と言われる方ですらこのような認識なので、まだまだ根深いとも言えそうですが。
以上『日本が社畜国家にならざるを得ない理由』でした。最後までご覧くださって誠にありがとうございました。